現在ブログ管理の余裕がないため、2010年9月以降、コメント内容にかかわらず、全てのコメントを承認しておりません。
引き続きコメントレス滞ります。ご了承下さい。
いただいたコメントには、目を通しております。
好意的、共感的なコメント、いつもありがたく受け取っております!!
日常生活を脅かす出来事が続いておりますが、皆様のご無事を心よりお祈り申し上げます。
more以下に、過去のお知らせを畳みます。
私は携帯を持っていても通話をほとんどしませんので、auの無料通話分はほとんど無駄にしていました。
携帯でテレビは見ませんし、オサイフケータイ機能も使いませんでした。
音楽をDLすることはありませんでした。
携帯でネットサーフィンはしたかったけど、携帯サイトに興味はありませんでした。
PCサイト閲覧しようにも、非常に見づらい上、料金がかさむ上、データの読み込みが遅すぎました。
ツイッターをちょこちょこチェックするくらいしかしたいことがないのに、ツイッターするだけでパケット上限を楽々越えてしまいがちでした。
携帯にメモをしたいときは度々あったのですが、txtファイルが作成できないのがとても不便でした。
そんな訳で、Wi-Fi接続で一般向けPCサイトがストレスなく閲覧できて、txtファイルの作成できるスマートフォンが欲しいと思っていたのですが、auからは一向に希望にかなう機種の出る気配が感じられなかったので、溜まりまくったポイントを断腸の思いで無視して、MNPしました。
iPhone4をGET!!!
気になる料金についてです。
各携帯会社には、障害者手帳が交付されている人向けの障害者割引制度があり、ソフトバンクではハートフレンド割引というらしいです。
ソフトバンクのハートフレンド割引はiPhoneにも適用されます。
具体的には、
ハートフレンド割引
・ホワイトプランの月額基本使用料980円が無料。
・「パケットし放題」に加入すると、下限料金が1029円から0円になる。
・「TVコール」の国内通信料が半額(30秒あたり18.9円)になる。
・ホワイトプランの契約解除料(9,975円/月)が免除される。
等々。
ホワイトプランは、通常だと二年縛りがあるのですが、ハートフレンド割引だと一切縛りがないので、解約手数料を気にしなくてOKみたいです。
auのスマイルハート割引は一年縛りだったので、実は不満でした。
ただし、その他の割引の適用を受けている場合、解約するとそれについてはリセットされてしまうらしいので注意。
例えば今ハートフレンド割引でパケットし放題を利用する場合、パケット定額サービスはパケットし放題フラットしか選べないようなことをiPhoneを買った電気屋で言われたのですが、2010年11月30日(火)までにパケットし放題フラットに加入すると、キャンペーン価格で、PCサイト閲覧料金の上限が毎月1000円以上安くなるっぽいです。
しかし途中解約すると、キャンペーン価格の適用がなくなるらしいです。
「パケットし放題フラット」のキャンペーン
2010年4月27日(火)から2010年11月30日(火)までに「パケットし放題フラット」に加入されるお客さまを対象に、「PCサイトダイレクト」利用時の定額料の上限が通常5,985円/月のところ4,410円/月でご利用いただけるXシリーズ向けのキャンペーンを実施します。本キャンペーンの申し込みは不要で、既に「ケータイWi-Fi専用パケット定額」に加入している方も自動的に適用となります。なお、本キャンペーンは4月度ご利用分より適用となり、キャンペーン終了後も4,410円/月のままご利用いただけます。
あとソフトバンクWi-Fiスポットのサービスにより、マクドナルドなどでWi-Fi使い放題。
引きこもり主婦の私にはあまり縁がありませんが、新幹線でもWi-Fi使えるそうです。
Wi-Fi対応機種をご利用の方向けの特典について
2010年12月31日(金)までに、「ケータイWi-Fi」対応機種またはiPhoneをご利用の方が、「パケットし放題フラット」とともに、「ケータイWi-Fi」(iPhoneの場合は「ソフトバンクWi-Fiスポット(i)」)にお申し込みいただくと、「ケータイWi-Fi」または「ソフトバンクWi-Fiスポット(i)」の月額使用料490円がずっと無料でご利用いただけます。
気前がいいな! ソフトバンク!!
auは、通話料金の面では手帳所持者に優しかったはずなのですが、いかんせん私はほとんど通話をしない人なので恩恵がほとんどありませんでした。
そしてauはパケット料金にお得な割引制度を適用することは、私の知る限りありませんでした。
それに比べると、ソフトバンクのパケットサービスが充実しているのは、パケットメインの私にのニーズにマッチしており、大変ありがたいです。
docomoは検討したことがないので、料金も機種もサービスも何も分かりませんけど。
ソフトバンクは回線が弱いと聞いていて、実際その通りに思えるのですが、自宅無線LANでWi-Fi通信がメインの私には何の問題もありません。
たまに出掛けるときには地下鉄メインなので、どのキャリアも使えないのは多分同じだと思います。
iPhoneを手に入れる前に希望していた用途は、くたびれ果ててPCの前に座れないようなときでも、畳などに寝転びながら、自宅Wi-Fiで快適に夫とメールしたり、インターネット、ツイッター、txtファイル作成したりできたらいいな……というくらいの気持ちでしたが、手に入れてから一週間、思ったよりも使い倒してしまいそうな予感がひしひしとしています。
「携帯でしゃべる相手はいないけど、ネットはばりばり使いたい」
というアスペルガーの方には、iPhoneお勧めです。
ただし、iPhoneはFlashをサポートしていないので、mixi携帯アプリで遊びたい方などには不向きかもしれません。
アスペルガーの苦手なスケジュール管理については後日改めて記事にしたいと思っているのですが、iPhone、かなり役立つように思います。
精神症状に合わせて適切な薬を出す能力と、アスペルガーの問題を本当の意味で理解して的確な解決策を提示する能力は、本来別のものだ。
アスペルガーの特性というのは、医師であれ一般人であれ、感覚的に理解できる人は驚くほど理解するが、理解しない人は全く理解しない。
両方の能力を兼ね備える医者に出会える確率の低さを思えば、私にできることは、最低限投薬に納得の行く精神科医にかかりながら、診察の場で本当の意味では理解されない苛立ちを、病院の外、理解してもらえる人がいる場所で吐き出すことだと思う。
問題の質としては、職場の上司にアスペルガーの特性を理解されない故に暴言を吐かれたときに発生する苛立ちと似ている。
精神科医は決して私を罵倒したりはしないが、言葉の端々に私を理解していないことが透けて見えると、萎えてしまう。
どちらも私より社会的立場の強い相手なので、不満をぶつけるにはリスクが大きい。
上司に文句を言えば解雇の可能性があるし、精神科医に文句を言えば別の医者に行けと言われてしまう。
私に合う上司や精神科医が極めて稀であることを知っているので、多少のストレスがあっても、恩恵があるうちには何とか折り合いをつけていきたいと思っている。
それでもストレスはストレスだ。
アスペルガーという診断は、私の抱える問題を分かってくれる人に出会うきっかけになった。
分かってくれる人は、同じ障害名を持つ人たちのなかにいた。
問題を共有できれば、解決策も生まれてくる。
私がうつだと診断され、自分でもそうだと思っていた頃は、うつの人と問題が重なる部分はあったけれど、本当の意味では悩みを分かち合えなかったし、解決策も生まれなかった。
だから、的確な診断を知ることは重要だと思う。
的確というのは何を指すのかというと、私がアスペルガーであるかそうでないかは問題ではない。
診断名に拘るのは、アスペルガーの病態にこだわりのある医師くらいだろう。
医師が私をアスペルガーであると思うか、アスペルガーでないと思うか、広汎性発達障害であると思うか、分類はどうだっていい。
問題は、私に関して、現在アスペルガー向けに行われている支援のノウハウがかなりの確率で有効であることだ。
的確な支援を利用するためには、アスペルガーであることを前提に動かなければ始まらなかった。
医者が私にどう診断を下そうと、それが現実だ。
今あるアスペルガー向けの支援が有効な人は、全てアスペルガーの診断名でいいのではないかとすら思う。
いわゆる自閉症スペクトラムの圏内にいる人たちについて、細かく分類分けする意味がない。
障害の程度が軽かろうと、現在アスペルガー向けに行われている支援のノウハウが有効ならば、多少アスペルガーの定義から外れたところがあろうとも、自分をアスペルガーだと考えて行動することは極めて合理的なことだ。
状態の重い、軽い、細かな症状の違いを区別することは、分類に熱心な医師にとっては重要かもしれないが、当事者にとってはとにかく支援を利用できるかできないか、それが全てなのだ。
運良く私は精神科医に発達障害を疑われ、発達障害専門医を紹介してもらい、アスペルガーの診断を受けることが出来た。
その結果、少しずつではあるが、堂々と支援の恩恵を受けることができるようになった。
大抵の精神科医は、アスペルガーのQOLをトータルな面で支えるに足る存在ではないことを自覚するべきだ。
精神科医には精神科医にしかできない、的確な薬と診断書を出すという大仕事があるのだから、患者には的確な社会的支援を受けられる可能性の高い診断名を下し、後のことは病院の外に委ねるべきだ。
患者には自分に合った支援を求める権利があると思う。
アスペルガーと診断されているこそ的確な支援が受けられるし、たとえ受けられなくても、アスペルガーというキーワードには、よりよい生活のヒントが沢山転がっている。
アスペルガーと診断されなければ、的確な支援が目の前に転がっていても利用できない。
そういう意味では、私は自分に下りた診断名に拘っている。
拘って当然だ。
でも、アスペルガーであることを私の唯一のアイデンティティにするつもりはない。
今の主治医に生活上の工夫についてアドバイスを求めても、薬を出して解決するか、解決策にならないことを提示されて終わってしまう。
基本的にアスペルガーという存在を理解しない。
対症療法に終始する。
だから不満が募る。
主治医は、効き目のある可能性のある薬を出してくれ、必要なときには支援施設などに診断書を書いてくれる人だけれど、本当の意味での理解者にはなれない存在だと割り切って付き合いたいと思う。
主治医だけでなく、ほとんどの一般の精神科医と付き合うには、薬と診断書のために存在するのだという割り切りが必要だ。
アスペルガーを本当の意味で理解してもらえる精神科医を捜そうとするのは、労力がかかりすぎる。
精神科医に対して過剰な期待をすることは、アスペルガーにとって不毛なことも多々ある。
繰り返すがアスペルガーのQOLをトータルで支えられる精神科医はごく少数であり、出会える確率は奇跡みたいなものだ。
本当は理解してもらえる精神科医にかかりたいと、いつだって思っている。
それでも心の声は無視して、精神科医には気持ちの支えは望まないと、割り切って付き合うのが現実的だと考えている。
少なくとも現在の主治医は私がアスペルガーとして支援を受けることを否定しないし、必要なときには診断書を書いてくれるし、私が望めば処方についても考えてくれるのだから、不足な部分については病院の外で支援を求めて、それでよしとしたい。
特に何をするでもなく、だらだらと過ごしています。
ところでうちらの結婚のいきさつは、私の実家から通勤範囲内のところに就職先が決まった彼が、うつで引きこもりで実家住まいだった私(病気療養中だったのでニートとは言わないらしいです)のところに住むことになって、
「結婚しましょう」
と『私の母』に言われたことです。
彼は
「分かりました」
という感じで、あっさりと了承されました。
結婚式はイヤだという二人の意見が一致し、入籍するならば五月五日がいいなと何となく思ったので、私はそのように主張しました。
あれよあれよという間に入籍の日取りが決まった後で、
「ところでプロポーズっていつしたらいいんだろう?」
と、彼は途方に暮れた声で呟きました。
うちの母がいなかったら、うちらの結婚はどうなっていたのか、甚だしく疑問です。
母としては、彼をのがしたらうつでアスペルガーの私には相手が見つからないと思ったので、私が愛想をつかされないうちにさっさと結婚させたかったようです。
私の結婚の秘訣は、何事もなあなあで流されがちの彼の性格と、彼を流すだけの猛烈なパワーのあった母にあると言えるでしょう。
結婚後、私があまりにも家で堕落していることに耐えきれなくなった彼に急かされて、自分なりにできることを考えて、このアスペルガーブログを作り、自己分析に励み、就職に臨んだのでした。
その結果、私が普通に働けないことに彼は納得したようです。
私に家事は難しいとの母の判断により当初同居していましたが、彼の転職や勤務先移転に伴い二度引越をして実家を離れ、現在に至ります。
家事力は現在進行形で誠意向上中、だと思いたいです。
私は家事の中でも片づけが特に苦手なのですが、彼がほとんどヘルパーのような働きをしてくれるので、何とかなっているように思います。
ちなみに彼の両親は、うちらが付き合っていたことすら知らずにいたところ、いきなり彼がうちの実家に住むことになったと報告したもので、大変ご立腹の様子でした。
彼は意に介した様子が全くなく、私はなすすべもなくぼんやりしているしかなかったのですが、うちの両親がフォローをして何とかなったように思います。
アスペルガーの結婚の秘訣を聞かれても答えることは難しいですが、私の場合には周囲のお膳立てが上手くいったと言えると思います。
無理をしても結婚生活は幸せに続かないと思うので、うつやアスペルガーについては、障害名は言わないまでも、生活上の問題点については打ち明けておくとよいと思います。
細かな問題点は一緒に暮らしてみないと分からないことなので、何となく普通と違うかもしれないということを大まかに言っておくくらいでいいと思います。
うちなどは、
「こんなののどこがいいの? 本当に何もできない変な子だって分かってるの??」
と、母が念入りに彼に尋ねていました。
酷い現実ではありますが、彼が真実を実感するにはさらに数年を要したように推察されるのでした。
アスペルガーの私は、ぼんやり歩いていると、地面しか見ていない。
それがずっと私の「普通」だったから、他の多くの人がそうでないことに気づかなかった。
例えば、小学校の頃の遠足。
私の記憶には、山歩きをすれば、地面がひたすら茶色かったことや、雨の名残でぬかるんだ土がスニーカーを汚したこと、地面を縫うように木の根が伸びて山道で階段の役割を果たしていたことが思い出される。
どこへ行ったのか、記憶にない。
私の持つ地面の記憶だけでは、過去どこへ行ったのか探ることもできない。
私が景色を見るためには、立ち止まらなければならなかった。
歩き疲れたら立ち止まる。
立ち止まったら木の枝を見上げる。
遠足の時、木々は大抵緑色の葉で埋め尽くされて、暑い日の照りつける山道に陰を作っていた。
私はなるべく日陰に立ち止まり、頭上を覆う枝ぶりの細やかなことに魅きつけられた。
根と同じように放射状に広がる様が面白かった。
私の過去のアルバムは、だから、枝と根ばかりだ。
どこへ行ってもそんな写真しか残らないものだから、人に見せるとものすごく呆れられた。
同行者と「遠足先を代表する景色」に写ることが、遠足時のカメラのまっとうな使い方だったらしい。
私の撮った写真は、他の人々にとって価値のないものであることが多かった。
撮った私でさえ、後から見たときには見所が分からない写真に成り下がってしまった。
せめて「遠足先を代表する景色」に注意が向けば、「さまざまな名所に詳しいアスペルガー」になれたと思うのだが、不便なことに、私の関心は名所に向かうことがなかった。
私は人の群から離れて、しんとした森林の涼やかな空気を味わった。
集団についていかないので、遠足のたびに先生には怒られた。
体力のない私は、人より多く休まないと疲れてしまう。
そして、疲れを感じたときに、木の陰に入っては休んだ。
おしゃべりしながら早足で歩く人々は、私には理解不能だった。
人々は他愛ない話を夢中でしているように見えながらなお、時折現れる遠景には必ず目を留めて、はしゃぐ。
彼らが立ち止まるポイントには、必ず彼らの見るべき何かがあるのだ。
彼らは、何もない道に立ち止まったりはしない。
私は彼らから距離を置きながら、どうして彼らには歩き、しゃべり、景色を見ることが同時にできるのだろうかと、不思議に思っていた。
定型発達者の夫と散歩をすると、夫はいつでもまんべんなく景色を見ているようだ。
ことあるごとに夫は、地面に向きっぱなしの私の視線を景色に向けようとする。
それで私は、定型発達者は、歩くことと景色を見ることが両立することに気づいたのだ。
アスペルガーの同時並行処理ができない脳の特性が、散歩中にも影響しているようだ。
定型発達の夫がどうやって景色を見ながら歩いているのか、アスペルガーの私は真面目に尋ねた。
【定型発達者の散歩中の認知】
・特に注意を払うことなく、ぼんやりと景色を見ている
・人のおしゃべりは半分聞き流しているが、相手に不自然に思われない程度に話に参加できる
・ぼんやりと景色を見るといっても、目の端で見ているのではなく、あちこちに視線を合わせて網膜の中央で見ている
・視線は景色のあちこちに自動的に移動する
・足下にも自然と視線が向くので、物に躓くことはない
アスペルガーの私の場合、意識的に周囲を見るよう逐一注意することなしには、視線の移動が起こらないように思う。
自然に任せると、視線は地面に固定される。
人とおしゃべりをしていると、話の内容に注意が集中して、景色は全く入ってこない。
おしゃべりしている間に地点Aから地点Bへ移動している、という感覚だ。
家を出たと思ったら、次に思い出せる周囲の状況が、三十分歩いた先の駅だった、という案配だ。
それは、例えば一人で歩いていて、自分の思考に没頭している時も同じである。
酷いときには、家を出て、次の記憶が目的地だったりする。
本当にワープしているような感覚におそわれることもある。
特別考えごとをしているわけでなくても、記憶が飛ぶのだ。
歩くのがおっくうだと思っているとき、ワープすれば便利だと、小学生の頃には既に思っていた。
だから、歩いているときは、なるべくワープする感覚に持っていくように心がけた。
何度も歩いた道なら、ワープはうまく行く。
道にとりたてて注意せずとも差し支えないほど、目的地へたどり着くまでの段取りが脳内に組み込まれているのだろう。
ワープ中の私は、注意がひたすら内部に向かっていて、外部へ向かう注意の配分が、きっと0%だったのだ。
通学中の記憶が消えることを、アスペルガーの私は当たり前に思っていたけれど、定型発達の場合はそんなことにはならないらしい。
もっとも、他のアスペルガーの場合に私と同じようなワープ体験があるのかどうかすら、私は知らないが。
最近は、散歩中、景色を意識的に取り入れるように心がけている。
地面を見るだけの散歩はただ不毛に感じるだけだったけれど、周囲の情報を意識的に取り入れるようになってからは、散歩中に外部からの情報を楽しめるようになってきた。
しかし、視線を意識的にあちこちに動かし続けることには相当な注意力が必要で、私はとても疲れてしまう。
アスペルガーの私が歩くことと景色を取り入れることを両立するためには、ぴんと張りつめて散歩をしなければならないのだ。
気がつくと、私の視線は地面に戻ってしまう。
もし散歩中の視線の移動が自然にできるようになればきっと私は定型発達者に近づけるように思うのだが、同時並行処理が難しい脳が定型発達者の物の見方を形ばかり真似しようとしても、意味がないと思う。
しかし、もしも歩きながら景色を楽しむことができるようになれば、散歩が楽しいものになるだろう。
アスペルガーの私が一人で散歩を楽しむためには、物に躓かないようにこれまで通り足下をぼんやりと見て、時折立ち止まって「景色に気を配る瞬間を作る」くらいのバランスがいいのではないかと思う。
定型発達者の夫と散歩する場合、歩くペースは合わないが、夫は私に合わせて歩いてくれる。
私が景色に100%の注意を向けている間、夫が私の足下に注意する。
興味深い対象があれば、私は立ち止まり、景色にファインダーを向ける。
夫が歩きながら私の足下にまで気を配ることは、私が注意を分散する方法を身につけるより遙かに現実的な対処法だと思う。
景色に注意が集中して地面を見ることを忘れてしまうのは、足元が覚束ない場所ではさすがに危ないが、晴れの日の平地ならあまり問題ないようだ。
子どもの頃の遠足の記憶は変えられない。
人が過去の遠足の話をするとき、私は話題についていけないだろう。
私の持つ根と枝の記憶に共感してくれる人は、多分いないだろう。
根と枝について極めて、私の感性を他者に伝わるように表現する手段を模索するのも一つの道だとは思うが、それは相当難しいことだし、世界の広がりが限定される道だと思う。
それよりは、これから旅をするとき、木の枝や根に吸い寄せられるのではなく、名所に目を向けるよう意識して努力するならば、他者との話のとっかかりが広がるのではないか、私の視野が広がるのではないかと夢見てしまう。
ちなみに私は、歩きながら飲み物を飲むこともできない。
私の脳は、どうやっても同時並行処理ができない作りになっているようだ。



